稲敷市立歴史民俗資料館より発行されました、『稲敷の寺院調査報告③』に西泉寺が掲載されました。
内容を一部ご紹介させていただきます。
西泉寺
醫王山東光院 天台宗
金剛界大日如来坐像
逢善寺(稲敷市小野)末
稲敷市桑山三四〇
瀧川善海(埼玉県深谷市、吉祥寺兼務)
西泉寺の所在地桑山には、古墳時代中期から近世までの複合遺跡である神屋遺跡があり、平安期の住居跡五十四軒が確認されている(古代の稲敷)。
西泉寺は近世初期の永宝四年(1676)亮誉によって中興されたと伝えられている。神屋遺跡の事跡からも、近世以前の前寺に関心が持たれるが、詳しいことは明らかではない。
(中略)
西泉寺は薬師信仰に基づく寺として開かれ、亮誉によって中興された当時から逢善寺との関係が深かったようで、入仏導師を逢善寺三十世学頭貞暁が勤めている。
貞暁は、膳所(滋賀県大津市)で生まれ、園城寺(同県同市)で出家し、比叡山東堂白毫院真慶に師事、その跡を継ぎ、同院二世となる。後、東叡山本照院宮に奉待し、この時逢善寺学頭を兼務して三十四世を名乗る。更に山門恵心院に遷り八世の法統を継ぎ、宝永元年(1704)三月、日光山修学院に董じ、後比叡山にて八十歳で遷化した。
(中略)
亮誉による薬師堂建立は、寛文十年(1670)に完成した新利根川の開削との関連も推測出来る。同時期に桑山村の新田開発が行われている。
本堂の本尊は尺五寸の木造金剛界大日如来坐像で、茨城県未指定文化財調査票によれば江戸時代後期の作とされている。
北側の大地に新宮神社があり、本殿は元禄四年(1691)の建立である。境内には元文五年(1740)八月銘の青面金剛像、鳥居脇に弘化二年(1845)十二月銘の道祖神像があり、当時の村人の信仰の一端を知ることが出来る。
西泉寺には無住の時期があったようで、隣接する共同墓地(現在は西泉寺墓地)には、天明元年(1781)若宮山浄心院(曹洞宗)葉山月泉を供養導師として宝篋印塔が建立されている。
明治初年の神仏分離の影響下でも、西泉寺は存続が難しい状態となり、隣村浄心院が西泉寺の檀家の世話に当たっていた。しかし明治十一年(1878)に昌澄が再中興となり、村内五十三戸は浄心院を離れ、西泉寺に帰入し、寺付田畑も旧に復した。
こうした推移の中でも、薬師堂本尊に対する村人の信仰は篤く、明治以降も堂守千日堂を中心に、薬師堂と本尊薬師如来は護持されてきた。
境内には、明治二十七年(1894)十二月八日付の薬師如来・勢至菩薩・阿弥陀如来坐像が建立されている。
大正七年(1918)鈴木純光住職代の記録に、
境内 一反三畝六歩
田 六反一畝四歩
畑 四反三畝二十六歩
宅地 一反三畝六歩
林 四畝十二歩
檀徒 五十三戸
本堂庫裏棟行七間 桁四間
大師堂 二棟
とある。
歴代
中興 亮誉 薬師堂、新宮神社建立。
元禄五年(1692)一月十二日寂
亮範 宝暦八年(1758)九月二十五日寂
元海 安永五年(1776)五月十八日寂
尭円 文政八年(1825)七月二十一日寂
二七世 諶昌 文久元年(1861)九月十日寂
二八世 昌澄 明治十一年(1878)から住持。再中興。阿波崎観音寺に転住。
二九世 純光 (鈴木)昭和二十四年(1949)一月二十八日寂。
三〇世 善晃 (瀧川)平成元年(1989)六月本堂建立。延命地蔵尊(青銅)造立。龍頭山門造立。
墓地拡張。
平成二十六年(2014)十二月二十九日寂。九十歳。
三一世 善海 (瀧川)令和五年(2023)三月二十五日、薬師堂建立。
引用元
稲敷市立歴史民俗資料館調査報告 第7集
『稲敷の寺院調査報告③』
令和五年三月二十八日 発行
編集・発行 稲敷市立歴史民俗資料館
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