終戦の年に生まれた私共のクラスは、全校で一番少ない人数でした。これ迄担任は全て若い女性の先生だったこともあり、クラスの雰囲気はお姉さんに教わる、そんなのんびりしたものでした。
それが高田小学校に新任されたばかりの瀧川先生に変わるや一変しました。先生が怒ることもないのに授業はいつも緊張感につつまれたものであり、自分も高学年になったことを自覚したものです。
先生はクラス内に放課後に行う奉仕クラブを作ることを提案し、参加生徒18~20名を率いて学校周辺の草刈り、藪刈りに生徒と一緒に汗をかいていました。
ある時台風で大雨が降り、校舎の裏庭全てが池の様に水びだしになった事がありました。このときも、先生の提案で奉仕クラブ全員で先生の指導のもと、一週間も掛かって校庭外へ雨水を流す水路を掘ったことを今でも鮮明に記憶しています。
小学生の頃の桑山は、年に3~4回庄兵衛さんの庭で映画が夜に上映されました。庭の端に大きな幕が張られ、その前のむしろに座り鑑賞するものでした。
上映当日は日中から軍艦マーチが村中に鳴り響きワクワクしたものです。映画は「日本かく戦えり」「雲流るる果て」「戦艦大和」等々戦争物が殆どで、最後は日本が敗ける内容で、小学生ながら悔しさを覚えると同時に、何でこうなったのか考えもしました。
夏休み千日堂の階段を上っていくと正面にお小屋があり、大勢のお爺さん、お婆さんが線香の煙のなかで、念仏を一心に唱えているのを恐れを持って、子供ながらに見入ってました。
お盆になるとお坊さんである瀧川先生が、毎年お経を上げに我が家にも来てくれました。母と私はお経の間、正座して聞き入り、先生はお経が終わると母と仏様や親戚のこと等を、少し話され静かに帰られることが常でした。私はその間静かに見守っていました。
お盆のお墓参りはどこの家も夜暗くなってからで、子供は浴衣にほおずき提灯、大人は大きなこんばん提灯を持って家族揃ってお参りしました。墓地は多数の家族がお参りに来ていましたので、お線香の香りと煙が墓地いっぱいに漂っていました。提灯に照らし出されて墓石に手を合わせる光影があちこちに見られ、どこの家族でも顔を合わせると姿はよく見えなくても「こんばんは」「こんばんは」と大きな声で挨拶をするのが習わしでした。
特攻隊に志願しつつ終戦を迎えられ、仏道を持って戦後の新しい教育に専念され、西泉寺の復興を成し遂げられた瀧川善晃先生が偲ばれます。
岡野克己
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